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番外編:人材育成と事業承継から見た、映画「国宝」の感想

 昨日、映画「国宝」を見に行ってきました。もともと歌舞伎自体は興味があるけど見に行ったことはありません。でも、日本舞踊を習う息子の将来の夢に「役者」という文字が入ったことで(※日本舞踊のお師匠さんが元歌舞伎役者)、フィクションではありますが、そういう世界をリアルに描く映画を見ておくのも良いと思いました。これから先は、私の国宝を見た感想です。つたない文章であること、また人材育成と事業承継に絞った内容で、非常に長文になります。興味のある方のみご覧ください。なおネタバレも多いので、ネタバレを嫌う方は見ないでください。  結論として、素晴らしい映画でした。ただ、目的がなくもう一度見ようとは思わない。もし私の子供たちやスタッフの中でちりめん街道料理旅館井筒屋を事業承継したい、そんな人が出てきたら、必須授業としてこれを見せたい、そう思いました。だからブルーレイは買います(笑)

 

「人材育成と事業承継から見た国宝の感想」

 まず、歌舞伎役者・花井半二郎の人材育成としてとった手法。わが子と部屋子を区別せず、良きライバルとして一緒に育てる。もちろん東一郎の真面目な性格と努力と才能あってこそですが、本当によい育て方をされていると思います。ただ、事業承継としての最大の悪手は、曽根崎心中のお初を東一郎に任せたこと。もちろん、親として、夜遊びで稽古に身が入らない半弥に喝を入れるためであることはよくわかります。また、東一郎に「芸を磨けばチャンスは巡ってくる」ことを伝えたかったのでは?とも思います。半二郎の様々な思いを理解はできますが、あらゆる面において言葉が足りません。公演自体は大ヒットしたものの、半弥が行方不明になるという最悪の事態になります。そして東一郎も「自分の芸だけを磨けばすべてが手に入る」という傲慢な思考に流れてしまいます。それは隠し子である娘・綾乃の目の前で、「芸を磨くために悪魔と契約した」と堂々を胸を張るほどにまで。この時点で、芸を磨く以前に、役者として以外の部分の人間性が欠落してしまっていることは明白です。(役者としては、日々精進を重ね、行方不明の実子の代わりに病で年々身体が不自由になる師匠を支え、死後は借金まで背負うという、物凄い孝行弟子だと思います。)また、のちに週刊誌に東一郎が事実無根の報道をされることへの布石にもなります。

 私事ですが、私は昔演劇が好きで、部活動と宝塚歌劇団に熱中して青春時代を過ごしました。今になって思うのは、舞台と旅館の類似性です。料理人と接客する人はもちろんのこと、清掃担当、洗い場、事務方、全ての人が自分の持ち場を正確にこなすことで成り立っています。わかりやすい例を挙げれば、祭りの華やかな神輿や山車も、担ぎ手や引手あってこそ。彼らがいなければ、神輿も山車もただの置物です。では、担ぎ手や引手が参加したいと思える神輿や山車とは?    老舗や伝統芸能であれば特に、それは個人の能力には依存せず、むしろカリスマ性やその人の人格、そして血縁に依存することが多いと思います。

 確かに東一郎の美しさと芸は素晴らしいものです。そして花井半二郎がバックにいる以上、スポンサーもつく。ですが、それだけで舞台は成り立たない。花井半二郎の死から、彼の人生は暗転します。週刊誌に、彼の過去・・・やくざの子であること、背中に大きな刺青があること、隠し子がいること、そして「東一郎が半弥を追い出した」という事実無根のことまで書かれてしまいます。私は無責任な噂話とメディアが腹の底から大っ嫌いなのですが、事実と嘘をうまい具合に織り交ぜて広められるのが、当事者からすると一番厄介で腹が立つんですよね。ただ、半二郎がなくなった今、その噂からかばってくれる人もいない。芸を見込んで後ろ盾になってくれる人もいない。セリフのある役も貰えない。いくら芸を磨いても、披露できる場を与えてもらえないと何もできない。とりわけ歌舞伎は血縁の世界なので、改めて「血縁」の大切さが身に染みたと思います。

 そんな孤立無援の彼に惹かれたのは、歌舞伎役者吾妻千五郎の娘、吾妻彩子。ですが東一郎が彼女と関係を持ったのは、後日半弥から言われたような、役がもらいたいからという単純な理由ではないと思います。歌舞伎の世界での血縁、「血」を得たい。そのために手段を択ばなかった。ですがその選択をしたがために、彼らは歌舞伎界を離れることになります。

 いくら芸を磨いても、歌舞伎役者というブランドと、それを求める観客がいなければ、役者という職業は下に見られます。この世の辛酸をなめたのち、東一郎は再び歌舞伎界へ呼び戻されます。それまで彼を認めなかった人間国宝・小野寺万菊の鶴の一声で。これについては私の私見ですが、役者の世界において、様々な人生経験を積んでそれを役に反映させることをよしとする風潮があります。一般的な「若いころの苦労は買ってでもしろ」「獅子は我が子を谷へ落とす。」の発展版ですね。

 特にかつての歌舞伎の題材は、悲恋や道ならぬ恋、心中ものなど、大ヒットする演目はいわゆる醜聞がらみのものが多い。だから昔は芸者遊びや酒の上でのけんかなど、歌舞伎にかぎらず多くの芸能人の醜聞は「芸の肥やし」として黙認されることが多い、ある意味特殊な業界でした。

 歌舞伎役者の息子として蝶よ花よとそだてられた半弥は、苦労に苦労を重ねた生活をし、父の危篤と子供をもうけたことで再び歌舞伎の世界に戻ってきました。そして人間国宝の小野川万菊に「歌舞伎への恨みもあるでしょうよ。それでも私たちは舞台に立たないといけない。」このような言葉を掛けられていました。そして万菊は、自ら呼び戻した東一郎にも「見せてみなさい」と扇子を渡して彼の芸を見ました。

 繰り返すようですがこれはあくまで私の私見ですが、跡取りだからとちやほやされて育ったり、自分の芸にたいして傲慢な役者ではだせない「芸の深み」。喜びだけでなく、怒りや悲しみ、憎しみ、恨み、自分の人生の中でそれらを経験し、その感情に鍛え上げられた心の底から湧き上がる芸。人間の心の闇の部分、それすらも取り入れて、芸事の「型」を超越した、その先にあるもの。生きている人間そのものを芸に昇華させる。万菊師匠はそれを求めていたのではないでしょうか?

 最終的に半弥は花井屋の跡取りとして一門をまとめ、後継者(候補)を残してこの世を去ります。その死因が遺伝性の糖尿病であったことは、「血」への皮肉のように感じました。「血縁」「遺伝」は能力や財産、人脈など多くのことを受け継ぐこともできますが、必ずしも良いことばかりではありません。

 そして東一郎は、国宝に認定され、そのインタビューの場で成長した綾乃と対面します。自分がこの立場になるために、いかに多くの人を泣かせてきたか。芸にまい進するあまり、全てを切り捨ててきた男への断罪と、それでもなお父の舞台を愛する、娘の言葉。断罪と和解が交錯する場面でした。

 最後に、井筒屋のような小さな事業所でも、若いころは経営者自身の才能や、売上高、規模の拡大に自身の価値を見出し、溺れ、時に傲慢になることは多々あります。いえ、多々どころか、むしろ誰もが通る道です。しかし、年齢と人生経験を重ね、自分にとって本当に大切なものは何か?それが見えてくると、別の境地が見えます。 私が井筒屋に来て20年余り。今私が見ている世界は、東一郎が見たかった世界(境地)とは全くちがいます。それでも、根底にあるものに共通性を感じた、そんな映画でした。

長文になりましたが、最後まで読んで下さった方、ありがとうございました。

ちりめん街道料理旅館 女将鈴木和女